番外編(その3) 走り続けたインクス時代、そして民事再生
- mnakata85
- 10月9日
- 読了時間: 32分
ベンチャー企業として1990年から2010年まで走りまくった20年間。
4人で始めた会社が最終的に子会社、海外子会社含め1800人ほどになり、私は常務取締役COOとして多くのお客様と社員と共にデジタルビジネスを展開した。“インクス流/3次元データの申し子 “として一世を風靡した。
1.インクス流と自動車開発期間の短縮
【トヨタさんとの開発期間短縮】
トヨタさんは2001年ITによる新しい開発手法の構築を目指し、技術・生産技術・生産・調達・情報などの各部門による全社横断の「BR(Business Reform)通称BE-AD活動を開始した。2000年に当時の豊田章一郎名誉会長(経団連会長)が突然インクスの金型第一工場「K1」を見学された。
案内してくださったのがドアなどの開発で昔お世話になった白井部長。2時間見学され、CATIA(仏ダッソー社)で3次元型設計・図面レスとアルバイトが金型の設計から製造、成形までの一貫製造工程を見学された。
最後に「私が2か月ここにいないとわからないな」とボツっと一言残されて帰路に就かれた。白井さんはそのまま海外出張で空港に車で向かわれたが、突然私に電話がかかり、“佐藤さん、大変なことになった会長に呼び戻された”との話だった。
そこから白井さんは、BR-AD創設・初代室長、役員、専務となり次々と改革を推進され、日野自動車の社長、会長を歴任されたと記憶する。ご一緒に改革活動をさせていただいた数年間は私的には僭越ながら同志と今でも思い、尊敬している。
名誉会長はトヨタ様の御前会議で工場見学のお話をされたと聞く。翌日から一斉に各役員がKMC詣でとなり、対応に苦慮したことが思い出される。
どうも“TOPのお言葉に対し、知らない”ということは降格を意味するらしい。
名誉会長は相当悔しかったらしい。“関東の小さな70人の藩にトヨタ十万人の幕府が負けている”と後で聞いた

次のトヨタさんからの依頼は「携帯電話の工程表」を貸して欲しいという依頼だったが、最初はお断りした。なぜなら三井時代に毎月60テーマの設計アイテムをこなし、その詳細計画を自分自身で管理する「計画表」の経験を活かしたもので、携帯電話の金型設計から製造に至るまでの2000工程をアルバイトでもできる超短納期「工程表/プロセス設計図)」はまさにインクスの門外不出の“神髄”だったからだ。
手持ちし、役員会議室の前で会議が終わったら返してもらうことを約束し初めて社外に公開した。
BR-AD室とはその後、多くの交流があった。インクスの「工程表」はプロセスを可視化する技術だが、トヨタさんは“見える化”と称し、万人を一つの方向に導くネーミングで改革を推進されたのはさすがだ。デジタル化システム化の前にトヨタさんは、すべて紙でそのプロセスの検証を行ったと聞く、さすがだ。
ある時、BR-ADの打ち合わせ後の懇親会で、社内でも“インクス流“は有名でみんなベンチマークしているよ。と言われた。早速、山田社長に、トヨタさんでは“インクス流”と呼んでいるらしいよ。と伝えた。
【Smart Engineering】現状調査・分析の重要性とプロジェクト推進は「合宿」が有効
現在、KMCでは、下図の事例に示すような「工程分析手法:Smart Engineering」を実践している。書籍「経営者に問うIoT/M2M革命」で紹介している。
プロセス改革の基本的な考え方は、現状工程の自己否定から入る事であり、第3者による「現状調査・工程分析」を提案する。何事も、プロの他人目で“キズキをもらい、自分を見つめなおす”ことは全てにおいて最初の一歩でとても重要だ。
KMCではトヨタさん程ではないが、デジタルとプロセスを融合した無駄のない工程つくりを目指している。現場を歩けば多くの気づきを得られる。私は年間、数十社、毎月お客様の工場を訪問して、診断をする機会がある(KMCでは、日本M&Aセンター社と技術顧問契約をしており、対象会社の技術力と成長力を診断、成長戦略提案を実施している。また、複数の投資ファンドからも同様な依頼があり対応している。)


その後、トヨタさんは独自の統合CADの見直しなどで大きな変換点となり、3次元CADを販売していた各ITメーカの役員から一斉に問い合わせと面談依頼が来た。「佐藤さん、豊田会長に何言ったの?」知りませんと答え、相当恨まれた。(笑)
ご来社された一人で白水重役から「この工程のどこで付加価値をつけているの?」と尋ねられ、トヨタさんらしい質問だったのが思い出される。山田さんが吉野家さんの見学時に教えていただいたのが、アルバイトがネギのカット工程で苦みの分岐茎は避けてカットし捨てるとのことだった。
早速、インクスの金型アルバイト工程でも“味付け”は必要と考え、工程にラーメンマーク をつけた。加工機内の切粉やミスと掃除、工具チェック等である。
その後、トヨタさんからは、TMNA(トヨタモータノースアメリカ)からの生産技術支援システム(サイマルエンジニアリングシステム)や貞宝工場とのシリンダヘッド金型のプロセス短縮、試作部からの光造形での車一体試作、特急金型製作の依頼など多くのお仕事をいただいた。今のKMCになってもそのお付き合いは続いている。
3ケ日の研修センターでのプロジェクト合宿は今でも記憶に新しい。知恵を出し合い、そして最終のTOP報告。
それだけではなく“お酒も入った工程短縮評価会”はみな一体となっておおいに改革を楽しんだ(笑)
【プロジェクト成功の秘訣1】日々の仕事から離れた閉じられた空間での「合宿」と飲み会が成功に導く
トヨタさんだけでなく、ほぼすべてのプロジェクトで「合宿」は行われ、社長表彰テーマも実に多い。
2. 日産さんとの総合的な開発期間の短縮プロジェクト「V3P」改革
ある時、ゴーンさんに改革メンバー「V3P」プロジェクトの中核メンバーが新宿のオペラシティビル52階に来社された。どん底の状態から部門横断改革の選抜隊で垣根をこえた自動車開発プロセスの取り組みの相談だった。
その解として金型の工程図を基に、部門との壁を取り払った純粋な情報プロセスとその情報をつなぐことを提案。当時、自動車完成車メーカにとって開発期間短縮は至上命題だった。
4年に一度のフルモデルチェンジ、2年に一度のマイナーチェンジ、各販売地域に対応したこまめな車種開発と全く人が足りない。トヨタさんは1990年代後半、従来18か月かかっていたビッツの開発を13か月に短縮して大きな話題となっていた。
トヨタさんには大野耐一先生が作り上げたTPS(トヨタ式生産方式)という徹底した無駄を排除しリードタイムを短縮する素晴らしい手法があり、それは今でも製造業の羅針盤となっている。
その後、12か月という開発リードタイムを達成して話題になり、負けじと日産さんはゴーン社長肝いりで「V3P」活動をスタートさせたと聞く。主力車種NOTEの開発期間半減10.5か月という超短縮プロセスが目標だった。
当時、15人ほどの技術コンサルタントチームを厚木の研究所に約2年常駐させ、プロセス分析から標準規格の棚おろしなど、私も毎週、会議に出席し議論を繰り返した。自動車開発工程の可視化は「インクス金型工程」を参考に大規模な自動車開発工程図を完成させた。
また、3次元CADによる自動設計手法構築など車開発にかかわる全てのプロセスを見直し、重複工程削減、IN-OUT情報連携など部門を超えた改革を次々断行した。
ネックだった金型製作期間短縮は、バンパーなどの主要製品と金型の標準化から着手し、7年間変更がなかった標準規格も3D対応規格に刷新した。
金型標準は、基本金型構造、Eピンやスライド、入れ子などを標準化・DB化し、製品と型をデータ連動させる仕組みで自動設計システム化を図り、バンパー等の金型設計工程は7時間、14日の製造に短縮された。勿論、金型データに対してCAM・加工・工具標準や自動化システムも製造工場に出向き協議した。そして、NOTE開発10.5工程が完成した。
改革とは楽しいもので、役員も外人コンサルタントも参加する本社での成果報告会も実施。なんと言っても毎週の会議が楽しみで技術交流だけでなく、日産技術報告会などの“飲み会交流”も大いに盛り上がった(笑)。
コンサルプロジェクト・改革には酒はつきものだ。日産さんはその後 “日産WAY”という名称で独自のサプライヤー含めた改革を次々と推進された。
【プロジェクト成功の秘訣2】毎月、少なくても3か月に一度「社長・役員報告会」を実施、緊張感を保ち、会社一体となって目標を達成するべし
2年にわたる日産V3P活動は、最終的に、ゴーンさんから社長表彰も受け、その後、私は数年間にわたり日産さんの課長級研修なども担当させていただき、その交流は私にとっても有意義だった。
今の日産さんは相当経営が厳しい状況にあると聞くが、かならず復活し、さらなる成長を信じてやまない。応援団の一人だ。
【工程短縮コンサル事業化】製造業だけでない工程短縮の要望
次々と依頼が来る“工程短縮コンサル”に対応するため、山田社長に試作・金型・技術・システム部門の若手のエキスパート20人の結集を提案し、2001年、コンサル部門を結成した。
マツダ様など各自動車メーカ、Tier1からも同様な工程短縮、自動化システムなど多くの技術革新テーマをいただき、エキスパート軍団が対応した。リーマンショックの前までは経済成長と同時に改革の時代でもあった。
コンサルとシステム部門も統合し150名を超える舞台に成長し、売上も60億円を超える部門に成長することができた。
その後、IBM天城のTOPセミナーの講演講師の機会をいただき、聴講者の中にいたANAさんの役員から、羽田空港のオペレーション改革の相談を受けた。
“佐藤さん、空港オペレーションは今日聞いた金型工程と同じ状況だ、きっと改善できる”離陸から着陸、そして出発までの空港滞在の4時間を短縮できれば空港使用料を下げることもできる。プロセス改革後、全国のハブ空港への展開とつながった。
残念ながらキャビンアテンダントとの懇親会はなかった、残念。若いコンサルタントは話が違うとおおいに嘆いた(笑)。
また、ENEOSさんからも石油精製プラントのメンテナンス期間短縮依頼“12か月のうちに2か月がメンテで止まるので半減出来たら生産性・利益が大幅にアップできる”同様な話が原子力設備のメンテナンス改革の話もあり、山田社長は“あらゆる工程は短縮できる”と豪語した。
前田建設さんからはマンション工事の工期短縮では“窓枠などの型の標準化やアバウトな工事見積もりを積算方式への改革“を提案し、異業種との交流は、若き優秀なコンサルタントも大いに楽しみながら成長できたのではないか。
山田社長からは“お前は外の会社ばっかり良くして、内部もよくしてくれ”と叱られた(笑)

3.ホンダさんと取り組んだ「CATIA TOPGUN教育」とALL-3D車フィットの開発と「金短30」
【3Dデータによる自動車開発に挑んだ時代、CATIA TOPGUN教育】
1990年代前半は、CATIAデータからの図面レス試作で、バンパー、インパネなどの光造形試作、ALミッションケースの塊から高速で切削する試作開発やシリンダヘッド等の油流れ透明モデルなど、図面レス試作の実績を積んだ。
1990年代中盤以降は、3次元CADのエンジニア育成に向け「CATIAによるTOP-GUN教育」を実施した。デザインから解析、各設計部門、生産技術、金型、レース関係まで極論すると全部門一斉に3D教育がスタートさせた。
CADオペレーション教育は基より、各自持ち込んだテーマに対し、金型設計、CAM、加工まで行う光造形試作や切削加工まで行う3Dモノづくりカリキュラムとした。それがトップガン教育である。優に500名以上受講され2年間にわたり実行された。
受講者は、最低、2か月間、仕事から離れKSPホテルに泊まり込みで徹底したCAD付けの毎日であった。
勿論、六本木の夜のドンチャン騒ぎ付きあることは忘れてはならない(笑)。組合の委員長も視察され、卒業試験はレベル1から7まで設定され、1級を取られた方が一人だけいたのにはびっくりした。
当時のインクスCADインストラクターは蜷川さんなど世界CATIAモデリングコンテストの優勝者クラスでそのスキルを1級としていた。そして研修報告は各部門のTOPの前で成果報告が行われ、さすが世界一を目指す自動車メーカという感じで、具体的な車開発と3次元設計に対する貴重なコメントも頂き、本格的な3次元設計者を育成された。
【提言】
なぜDX・デジタルがなぜ普及しないか。それはTOPの意識や勉強が足りないことにも起因している。自ら、現場に出向き、センサ操作、設備から得られるデータの分析知識を身に着けることを提案する
現場やDX担当からは、上が知らなさすぎる。すぐに投資効果だけを求めてくる。これが本音
そういう私も大学の実習は最先端の紙テープパンチャーのコンピュータと64関数の電卓の時代(笑)。
TOP GUN教育の成果は2000年のフィットに注ぎ込むことになり、“まるっと3次元設計車”とし、ドアと車体の見切りを2㎜を目指した画期的な曲面デザイン車であった。同時進行していたのが“金短30“と銘打ち、図面レスで大物内製金型の主要30部品のすべてを30日納期とする取り組みである。
自動車の主要金型はシリンダヘッド、サイドアウター、インパネ等ホンダエンジニアリングさんとの共同取りくみであった。それを主導したのが恩師の「永田常務」である。
ホンダさんには永田さんと松島さん(現自動車部品工業会顧問)の二人の師がいる。公(仕事への取組み方)私(飲み方・遊び方)にわたり大変なご指導をいただいた二人だ。
その後、トヨタさん、三菱さんなど他の自動車完成車メーカさんも同様な”トップガン教育“を受講された。3D設計の進化を求めて、永田さんと改革メンバーの皆さんと一緒に仏ダッソー社へ訪問、寄り道してドイツテコプラン社のデータ構造軽量化の調査を行った。
そしてちょうどオクトーバーフェスティバルが開催されていたので、お招きいただき多いに国際交流を図った。日本の花見と一緒で、場所取りから始まり、前を歩く美女と一緒になりビールで乾杯。五反田や六本木もよかったが、ミュンヘンも捨てがたい(笑)

【提言】
自動車部品の90%が金型で作られている。金型は単なる購入資材であってはならない。
1円でも安い中国や韓国の金型を購入するのではなく、不良を起こさない、耐久性の優れた、メンテしやすい日本の金型を見直す時期である。そして今一度金型サプライチェーンを育てるべきである
「金短30」:金型を制する者が自動車を制する
1990年代後半から2000年初頭は、自動車業界にとって大きな変革期であった。3次元化で自動車のデザインから製品開発プロセスまで変える大きな挑戦と変革期であったといえる時代だ。
今も100年に一度の大変革期と言われているが、本筋の取り組み、何かが足りない気がする
4.キャノンさんとのカメラ鏡筒・プリンタカートリッジ金型の工程短縮
何も自動車だけではなかった。豊田名誉会長の来社とほぼ同じタイミングで、2001年、CANONの御手洗社長他、役員11名がK1工場見学に来社された。女性社員が電話を取り“社長、キャノンの御手洗さんという方の秘書から電話です“と伝えた。山田社長は次の週、US出張予定があり”対応できないな”とつぶやいた。すぐさま、“何を考えているんですか、出張やめて、対応してください“と直言した。(笑)
その1週間ほど前にキャノンさんの生産技術の方が、古い低速の機械にも取り付けられ、最新の高速MCに生まれ変わる「3万回転高速スピンドル」の購入検討に来社された。安部さんは栃木のナカニシさんから歯の研磨機の超小型・高速モータを分けてもらい、MCの高速スピンドルを開発していた。どうもその報告からだったようだ。
急激な携帯電話戦争と同じく、自動ピントのデジカメが急伸して各社開発競争が激しかった。
キャノンさんは、TPSのコンサルを受け、屋台方式組み立ての導入等で有名だった。御手洗社長は、“山田さん、うちのカメラの鏡筒金型が6か月もかかりこれでは競争に勝てない”という話だった。生産技術常務とインクスの短納期金型システム導入に向けた活動がスタートした。
“Dプロジェクト”と命名され、キャノンさんの金型関係者とコンサルタント併せて100名ほどだったと記憶する。キャノンさんの金型部門の方は、最初はどうせ携帯電話金型だろうと軽視していたと聞く。60年の歴史あるキャノンさんの金型部門としては当然である。
“携帯電話と超高精度の鏡筒金型はワケが違う”同じシステムでは絶対無理だ“と部長と論争になったことも今では楽しい思い出。私と安部さんは、悔しかったので6分割の放電で製作するすり割り金型コア部品を一体の丸棒にして、ロータリー加工治具を使った円筒加工で、ほぼ24時間で3次元データから鏡筒コア部品を見事安部が製作して見せた。
そしたら、“そんな精度が悪い型部品では通用しないよと”返されたので、“加工精度を出すのは、あなた達の仕事でしょ”と一蹴した。
“KMCは手法とシステムを提示する会社だ。何も今からカメラ金型をビジネスにする気はない”と言い放った。当時は粋がっていたのだろう(笑)。
約2年の活動で20日納期の金型工程、自動化、必要設備が提案された。続けて、もう一つの主力商品のプリンタカートリッジ金型の標準化と金型納期短縮も2か月から10日ほどの短縮工程が描けた。問題は、実際の金型工場をどうするか。


活動から2年、課題の最新金型工場も茨木の阿見工場に3D高速金型ラインを開設するまでになった。1年続けた毎週のキャノンさんへの役員報告は緊張の連続だった。
一昨年、金型工業会でお話した当時のMプロジェクトメンバーがキャノンモールド社長となっていて“いろんなことがあったけど、インクスの考え方は今でも実践している。あの考え方は正しい”と言われたのが本当にうれしかった。
【現在の技術コンサルビジネス】
インクス時代、リーマンショックで全てのコンサルがキャンセルになり、売上がほぼ“0”になった。現在は、製造業のお客様が絶対必要とされるものつくり現場のソリューションに特化した技術コンサルを展開している。
特に不良を出さない、生産を止めない製造現場の困りごと解決にむけ、デジタルソリューションを開発している。
製造業の利益は「製造現場が生む」。その利益化に貢献したい。ファブレスのKMCはお客様の製造現場に寄り添い、一緒になって利益を生むソリューションを開発・販売する企業である。
【格言】プロセス改革なくしてERP・MES・PDMなど業務管理ソフトを入れても全く効果なし
業務分析が伴わないシステム導入は目標の「利益」には到達しない。Sierや如何わしいITコンサルタントの言われるままに、高額なソフトを導入する企業が多いが成功事例は聞かない。製造を知らないIT・情報システム主導では、製造現場とかえって壁ができてしまい、マイナスになっている。
KMCでは金型電子カルテやナレッジ電承・センシングなどDXソリューションには調査・導入・業務改革支援が伴うことは当たり前である。その時、お客様の製造・現場・不具合を理解する知識が必須である。
以来、ジャトコさん、カルソニックカンセイさん、シマノさん、矢崎総業さん、河西工業さん、ヤマハさん、ゼロックスさん、タムロンさん、コニカミノルタさん等、多くの製造業の開発プロセス・金型納期短縮のお手伝いをすることになった。
中には河西工業さん等、金型新工場を新設する取り組みも多くあり、加工機選定から、CAD・CAM選定、工具、RFIDによる金型・工程管理システム・自動化など大規模投資案件も経験をさせていただいた。
【各社長の名言】
みな勝ち抜くためにTOPは必死、そして即断即決、真剣勝負のコンサル経験
河西工業の藤田社長は、設計・金型の現状調査が終わり、社員全員・役員を集めた最終報告会で
“私はこれをやると決めた、反対する人は今すぐ辞表を出してください”
ゼロックス山本社長はナレッジシステムを社内で構築していたが、現状調査の最終報告会で
“我々の取り組みの浅さは見透かされたね、しっかり調査・提案を頂いたのでこれで行こう、いいな!”
SONY中鉢社長、ウオークマンの成功依頼、打開を図るため来社
“インクスさんがファラオならSONYはゼウスで行こう”そしてプロジェクトを立ち上げた
パナソニック中村社長、「創造と破壊」をテーマにK2工場見学、同行専務(後の社長)に対し、
“うちはどんな取り組みをやっているのか、と詰問”小声でIBMとやっていますと。そして九松の改革が来た
シマノさんの島野社長、弓削専務はK2工場見学後、インクス最大の改革コンサルスタート
“うちは金型外注が多く製品開発にはそこがネック、今日の見学でよくわかりました、提案ください”
三菱重工さん、シャープさん、マツダさん、スズキさん、ダイハツさん、カルソニックカンセイさん、日本航空電子さん、ノキアジャパンさん、アイシン・アイシンAWさん、トヨタ紡織さん等、社長の皆さんは即断即決だった。
社長としての心構えと統率力、闘争心を直接教えていただき、貴重な経験だった。時々、食事に招いていただき、貴重な生の経験談や想いを聞きながら“お酒や趣味”交流も楽しかった。
KMCになってからも
児玉化学工業坪田社長 同様現状調査の最終報告会で役員、社員を前に
“KMCさんの提案を超える提案があったら、今言ってください。なければこの提案ですぐ実行する”
スズキ生産技術松浦常務さんは、KMCを始めてすぐに挨拶行ったら生産技術人員を集められ、いきなり
“私はこの佐藤さんに生技改革を手伝ってもらう、なんでも佐藤さんに相談してください”
マルチスズキなど海外工場を主体に活躍、今年7月の第一回KMCユーザー会の会長に就任をお願いした
富士テクニカ和久田社長は、スズキさんから国策で宮津製作所、富士テクニカの合弁社長に就任
“スズキ時代に佐藤さんにはお世話になった。佐藤さん手伝ってくれ、社員に佐藤さんに何でも相談してくれ”
2社の違った開発・製造文化を「工程表」で統一、コニカとミノルタの合弁の技術統一コンサルと2社目
アイシンAW早渕専務さんは、
“佐藤さんにはミッションの3次元データ作成で命を助けられた。佐藤さんは加工時間短縮や要素技術開発も得意だ。安藤部長どれから頼む?ミッションケース加工時間短縮ではどうか、佐藤さんの会社は始めたばっかり、今日の打ち合せの費用・交通費も請求してくれ”
後にも先にも“売り込みの打ち合わせ費用”をいただいたのは初めて、こちらこそ命の恩人。そのテーマは社長表彰をいただき、チームみんなで熊肉で祝杯(笑)
【ビジネス信条】
“受けた仕事はどんな課題や苦境に陥っても最後まで裏切らないでやり切る“
お金ではないがKMC信条。先輩社長から学んだ日本流経営、最後は社長が責任を取る
5.日本初の光造形試作メーカの出現と光造形の普及活動
1990年インクス設立当時の日本では、光造形装置メーカが4社ほど乱立していた。
帰国当初、3DSystemsの社長のチャールズハルさんから是非日本でSLA装置販売をしてほしいとオファーもあったが、装置は日本だよねという安易な考えで日系メーカの装置を買ってビジネスを始めた。これが大失敗、造形品ができず会社が倒産する危機に陥りリースを解約した。
顛末を三井リースへ説明にいったら、“山田さん、手足がない状態でどうするの?”と聞かれ、私の肩をたたいて“こいつがいるから大丈夫です”と言い放った。この物語はNHKスペシャルでも日比谷公園の回顧録シーンとして放映された。
結局、3DSystems社製のSLA250とCATIA・コンピュータを再リース、3次元CADから光造形試作を行う日本初のディストリビュータとして注目をあびることになった。

技術責任者はDr.P.Jacobs氏でその造形理論をまとめた書籍はまさしくバイブルだった。日本で最初に光造形試作を発注してくれたのが日本航空電子工業の村山設計部長である。
“他社に先駆けて試作品を自動車メーカに提示する事ができれば受注が取れる。インクスなら1日で作ると聞いたと”と熱っぽく語られた。
コネクタ図面を持ち込まれ、徹夜でCATIAのSOLID化に取り組んだが、形状があまりに複雑でSOLID化・ブーリアン演算ができない事態になった。(SOLIDにしないとSLAにかけるSTLフォーマットに変換できない)
徹夜で分割モデリングを行い、何とか手練手管でSOLID化、そして造形、その出来栄えの綺麗さと一夜で完成したスピードに我ながらびっくりした。納品にもっていったら村山さんも“これで注文がとれる”と笑顔で感謝された。日本で最初の3D試作成功事例であったと考える。
それから、パナソニックさん等、大手電気メーカさんからも局面化したラジカセ試作、自動車メーカからエンジンシリンダヘッド、インパネ等、大物試作依頼と続き、どれも3D-SOLIDデータ化できるかわからなかったため“エイヤと各試作費1000万円”と見積もった(笑)。どこの試作屋もできない仕事だった。
その後、世の中急速に3D設計も進み、順調に光造形試作ビジネスは20億円まで成長した。
1990年は、日本の職人による手作り試作を一気にデジタル試作化した画期的な出来事だった。USではすぐに光造形試作メーカが200社となり、協会もでき、開発設計は一挙にスピードアップし世の中一変した。
そして今では3Dプリンターとして、誰でも、子供でも自宅で“ものづくり”が楽しめる時代だ。
【光造形産業協会の理事・素形材センターの理事】
日本では、東大中川先生が会長になり、光造形産業協会が発足した。私は、その光造形産業協会の理事となって専門誌論文や普及活動にTV、講演に走り回った。
素形材センターは日本の木型や金型、鋳物、光造形など16の団体が集まった組織体であった。少しでも協会の運営に携わり、政治家や役人との関わりも貴重な経験だった。
KMCでも現在2台の3Dプリンターが活動中。センサなどの研究開発・原理試作、治具・設備製作、センサ試作で活躍している。少量量産や原価低減・内製化で効果がある。

(光造形機の普及に遁走、高瀬さんは幻の社員)
3D systems社と販売契約後、SLA装置の設置・調整・メンテは高瀬が担った。トヨタさんの担当者が“佐藤さん、この本だよ”とP.ジェイコブス博士の本を見せてくれた。積層造形の理論と特許を理解されている人で嬉しかった。そしてホンダさんもスズキさんもデンソーさんも次々とSLAを採用してくれた。
私は光造形普及のための講演と営業訪問で全国を走り回った。秋田への帰省のついでに、秋田工業技術センターにアポを取って“GWの休みに、このために秋田まで来ました“と言ったらすぐばれた。”なんの山菜とりに来たんだべ”と永田さん。秋田弁と田舎の話しで盛り上がった(笑)。
そして東北六県の工業試験場の高分子学会に招かれ、技術紹介をさせていただいた。“最後の最後まで残って夜どうし飲み明かし、お金を払うのはいつも秋田だべ”新しいもの好きで付き合うと人懐っこい秋田県人、永田さんが陽気に営業もしてくれた(感謝)。
その甲斐あって、岩手、鳥取、京都、埼玉など工業試験場に販売できたとき、山田社長から“お前、俺の故郷、広島はどうするんだ”と叱られた。そして、めでたく、広島工業技術センター、中国工業研究所、広島大学と立て続けに採用していただいた。
高瀬は装置の設置から年一回の定期メンテナンスと全国津々浦々、愛車の対向水平エンジンのスバル車で移動し、ついに車上生活者となってしまった(笑)。社員NO.2の高瀬さんはどんな人ですか?とよく社員から聞かれる幻の社員であった。
【保守メンテはメーカの責任】
この時の光造形装置のメンテナンス経験が今のKMCのセンサやIoT/M2Mシステムの保守対応の基本的な姿勢となっている。耐用年数7年、年一回の定期メンテ、消耗品のレーザーの交換、装置トラブル対応の経験は、今のKMCのソリューションの丁寧な保守サポートの基本姿勢となっている。
最近カタログ販売で安価に販売して数を稼ぐメーカも多く、カタログ販売は本当にユーザーのことを考えているのか疑問だ。量より質を求めたい。それができるのがベンチャーだ。
6.究極の金型の全自動加工工場「零」への挑戦
最初は、光造形品では“強度試験ができないんだよね“というゼロックスさんからの一言だった。その後、光造形機を導入していただいたデンソーさんから”PRO/Eの3次元データがあるんだけどこのデータだけで試作型が10日でできないかな”という購買からの相談が金型事業展開の決断となった。石膏鋳造型から試作業者に頼んだがどこもできなかったらしい。
“佐藤さん、できる?”当時、川崎市の郵政事業でフェローとして“オブジェクト指向のデータからの金型製作研究“を実施しており、工場試験場の一室に加工機を導入し、安部もフェローとして切削金型を研究していた。
放電加工が入ると表面粗さから手磨きが必要となり、熟練工の作業となるので、ALL切削、それも表面を鏡面のごとく加工できる3万回転以上の高速切削技術が必要になる。
当時高速加工に向けて自動車ターボファンを活用した30万回転加工まで開発していたが、それでは工具が持たない。そこで、深リブの溝加工にL(刃の長さ)/D(工具径)10以上の小径高速加工専用工具を設計し、日進工具に依頼した。
携帯金型はALL切削、放電レス、磨きレス、そのための高速スピンドルと高速加工機、専用工具開発、その解析に高速度カメラと要素技術開発も必要だった。
早速、デンソーさんからのPRO/Eの3Dデータをもらい、携帯金型の加工に着手した。1Weekで完成し、納品しに行ったら、“佐藤さんのところだけだよ。もう4機種あるけどやってくれないか“加工機は1台のみ(泣)
“1998年、3次元データからの図面レス金型屋”としてのスタートだった。
金型工場は、中小企業の集積地、西の東大阪、東は蒲田六郷土手が有名だ。三井時代に図面と一升瓶を持ち込んで徹夜作業を頼んだ金型もある馴染みの土地だ。
型屋のおやじは“法事があるからと夕方いなくなる、サウナでも行っておいで“と言われて朝まで待っても帰ってこない(泣)。山田さんはやるのなら蒲田と決めていたので、蒲田にK1工場を作る事になった。出張帰りの新幹線の中で高額な職人は雇えないので”アルバイトを20人雇っていいですか“と頼んだ。失敗しても10万円、月200万円。”3か月、加工設備投資と思ってやっていいよ“との返事。人手不足、職人レス・短納期を目指した“アルバイト金型屋”のスタートだった。
展示会では金型屋のおやじが“金型屋を愚弄するな、金型は職人で作るもんだ”と怒鳴り込んでくることもあった(泣)。安部さん等少ない型経験者と優秀な若手エンジニアもいたので、アルバイトができるスキルレス金型工程の構築に着手した。
前述の3万回転高速スピンドルを組み込んだ切粉からみ対策の“ワーク上にして下から加工する天地逆転の超小型高速加工機”まで自社設計し、製造プロセスと情報伝達・作業指示はMCにPCを取り付けた情報連携システムも開発した。
ベテラン金型設計は2週間かかる、新工程では、型構想のみベテランが5分で指示、あとはアルバイトが型割やスライド、Eピン配置設計、半自動設計システム化されマニュアルに沿えば30分もあれば詳細設計、そしてNCデータも同時並行で完了。1日、200型も可能なスキルレス自動化プロセスとなった。
何もないからかえって知恵を絞る、窮鼠猫を噛む。そして継承するためにはシステム化が必要だ。それが電承
【余談】とんだコンピュータの2000年問題の年末、K1工場で年越し試作
コンピュータの2000年問題で揺れていた年の暮れ、12月26日、山田さんと年末の工場視察にでかけた、K1金型工場につくと何やら営業責任者の立山さんと現場でもめていた。
“年明けの1月4日にはノキアさんに届けないと国際問題になる”金型が複雑で金型に成形品が食い込み取れない。“佐藤君、後は頼んだよ“ と山田さんは言い残して帰った。そこからが修羅場。
アルバイトを暮れの“年越し一時金“と称し、引き留めた。12月31日になっても先が見えない。「暮れのお祝いとお年玉」を追加投入して可能な人をつなぎとめた。
1月3日になった時は安部さんと川辺さん、成形の松ちゃんと私の4人しか残らなかった。3日の深夜、ついに安部さんが寝ながら立って型みがきしていた。こんな人は後にも先にも見たことがない。大将が倒れたらおしまい、手を出すなと言われていたが、やむに已まれず型磨きと型組みに参戦し、4日の朝方やっと30個成形品が取れた。立山さんはそのまま成田に直行し、フィンランド、ノキアに納品できた。(安堵)
ずっと年末年始とKI工場に泊まり込みだった、とんだ2000年の正月でやっと家に帰れたのが1月4日。
家内と子供にはえらい迷惑をかけた“情けない夫”(泣)。
事業化して1年、ノキアなど世界中の携帯試作金型を受注し、最終的に携帯試作型90%シェアまで成長した。
その結晶が長野に建設した「零」工場に受け継がれ、今度は量産金型に挑戦だった。
【Smart工場のはしり インクス時代の「零」工場:全自動金型製造システム】
K1、K2工場、そして野村ライチョウファンド100億円で山形、ダイ精研、三菱マテリアルの金型部門を分社化してIPM設立。当時、世界の工場として中国の台頭が目立ちはじめたときだ。“2008年、人手による金型作りでは人件費の安い中国には負ける”が口癖となっていた。
日本の1/20でボクシングなら2本対40本、到底試合にならない。2004年から安部監修の「鉄人」と称した試作型自動型部品製造ラインを密かに稼働させていた。満を持して2006年、無人工場建設に着手することになった。
投資金額も50億円くらいだったか。経営会議でも、それは無茶だと反対したが、“稼ぐのは佐藤君、使うのは私“と口癖の山田さん。金型製造ライン管理ソフト「ファラオ」開発や設備、治工具開発など精鋭40人ほどが「零」工場で結集、寝泊まり。
工程能力(図)は超短納期48時間プロセスとして開発が進んだ。2007年についに完成した、携帯電話だけでなく、大型の#50加工機も導入、地下には秘密の拡張エリアを設けた。コンセプトは「30万個携帯量産金型を全自動で無人24時間連続稼働工場、型納期1Week、で中国に勝つ」。

機械間のワーク搬送ロボットはファナックを採用した。黄色い車で稲葉清右ヱ門社長が見学に来られた。いきなり“山田さん、チョコ停は何回ですか?”山田社長は“22時間連続稼働で3回です”。
そしたら稲葉社長がファナックのロボットを製造する無人ロボ製造工場は、監視要員3名で、チョコ停5回と教えてくれた。
社長はとにかく負けたくない(笑)。その意地が社内を改革をリードする、後ろ姿を社員がまた追いかける
自動化には相当な設備投資が必要だ。裏方のシステム開発・設備メンテ要員、その維持費用も考慮すべし。
7.芝浦工大を卒業し30年、50の手習いで母校博士課程への入学
海外に行くと、日本では感じないが、博士がやたら多く打ち合わせに出てくる。
特にドイツではテクニシャンと技術とは大きな壁があり博士が実に多い。
イギリスでは鉄道の窯焚きの息子は窯焚きと言われるほどヒエラルキーが厳しい国もある。
インクス時代に50の手習いで始めた博士論文挑戦は、機械学会へ5本の論文を出し、母校の芝浦工大で博士課程へ入学した。博士論文は「プロセスとナレッジを融合によるデジタル開発システム」であった。担当教授は流体力学の権威岡本教授、のちに理事、名誉教授になられた。
私の時から“論博“も急に厳しくなり、学外審査委員招聘が義務付けられ、私には東京大学中尾教授ら5人の審査委員が論文の評価にあたった。昔はお金をだせば博士が取れた時代もあったようだが、今ではとんでもない話だ(笑)。
岡本先生には”出来の悪い生徒を指導することになり、大変迷惑をかけた”KMCの設立にあたり、顧問にもなっていただき指導を受けることになった。中尾先生の門をたたき「公理的設計(中尾先生、畑村先生らの共書)」の書籍をいただき、“これを読んで勉強しろ”“と直接ご指導をいただいた。(感謝!)

ドイツ始まったIndustry4.0、産業革命を博士論文でも考察した。イギリスではじまった産業革命は、100年の計であり、簡単に論じられてはいけない。私は野口先生の知的産業革命「ITナレッジ革命」には大いに賛同したものだ。

知的産業革命を目指してKMCでは「ナレッジ電承システム・電承Factory」を開発・販売している。参考にされたし。
【余談1】会社は手作り、それがベンチャーだ
インターコンピュータシステムそれがインクスだ。1990年、USの碁盤の目のような交差するハイウエイを見立て、コンピュータのネットワークで試作・開発する会社として山田さんが命名し、4人で始めたベンチャー企業だ。お金は山田さんと皆で少しずつ出し合い、弁護士にも労働基準局や銀行、役所手続きなど人に一切、頼まず手作りの会社だ。
そして山田さんと佐藤の共同生活(同棲)が始まった。お互い家族とは別居生活。アパートから一緒に出ると怪しい2人になるので時間差出勤とした(笑)。
【余談2】何も知らない技術屋だけのベンチャー企業。手形ってなに?
ある時、手形をお客様からもらい、後生大事に金庫に入れていたら八尾社長から、それ期限が切れているので使えないよと注意を受けた。営業も経理も手形も何も知らない、八尾社長が裏判を押してくれ事なきをえた。(笑)
インクスも紆余曲折しながら20年の歳月がたっていた。そして2008年9月、リーマンショックで終焉を迎えた。
【余談3】インクスを買いに来た鴻海の郭社長
三井を始めて3年、4年してある人の紹介で鴻海の郭会長が会社を売ってくれと来日した。帝国ホテルの喫茶コーナーで山田さんと会談が始まった。3次元CADを扱い、曲面を持った金型を図面レスでできる会社として白羽の矢が当たったらしい。
当時、携帯など3次元化が進みあらゆる製品が丸みを帯びたデザインになり開発期間も短く、鴻海も対応に迫られていた。私はNO.2のニックネーム・タイガーが相手。5億円を提示してきたが、交渉は難航、郭社長は普段吸わない煙草をくわえた、悩んだ時にしぐさと後で聞いた。
”佐藤君、どうしようか“ 勿論、断ってください。
【余談4】インクスの終焉
朝突然、山田社長から会社の前の喫茶店に呼ばれた。“佐藤君、民事再生手続きをした。悪いようにはしないから“ 最初は理解できなかったというのが本音。
リーマンショックのあおりで試作もコンサルも一時受注ストップ。トヨタさんからは半年こらえてくれといわれた。買収した金型会社ダイ精研も同様で、取引先の社長に”コアピン一本でよいので発注書をください“と、それがあれば銀行の貸し剥がしが避けられると懇願し、やっと一枚もらうことができ銀行に再建の話ができた。
民事再生が認可されるまでの1年間は、時間のある限り最後まで200社以上の顧客への状況説明と再建策を丁寧に行った。“佐藤さん早く辞めて会社を作って、また一緒に仕事手伝ってよ“と応援してくれる人もいた。1年がかりの民事再生裁判でやっと認可されたのが2009年。
八尾社長から“今日はいろんな出資者の人がいるね。山田さん、よい時はいろんな人が纏わりついてくる。本当に信頼できる人を見抜くのも経営だよ” 重い一言だった。
【余談5】KMC設立
インクスの会社の設立式は、応援してくれたファソテックの長見社長、平和産業八尾社長の立会いの下で行われた。設立発起人・趣意書に順番で各自印鑑を押していく、高瀬もその一人だ。八尾社長が笑顔で「今日のハンコのノリはいいね!」さすが老練である。緊張した心が安らいだ。
八尾社長から、会社がつぶれそうになった時、車で千葉から海まで夜中走って心を静めた話を聞かされた、今でも思い出す。KMCを設立するとき、長見社長に挨拶に行ったら“佐藤さんいくつになった?54歳だけど、いやお子さんだよ。30才と28才です。なら大丈夫だ。思いっきりやんなさい” みな、優しい思いやりのある先輩社長だった。
【余談6】2010年、佐藤54歳、新たな出発「KMC」
4人で始め20年走り続けたベンチャー企業インクス。また、前を向いて新しい仕事をやろう!と安部が賛同してくれた。嬉しかった。二人でインクスの発祥の地KSPで再出発することになり、元来明るく前向きな安部さんは、早速、樹脂製の椅子付き折り畳みキャンピングセットを仮事務所に持ち込み、二人で何をやるか相談を開始(笑)、そうして高瀬さんなど賛同者も集ってくれた。
人生とは失敗の繰り返し、死ぬときに正直に精一杯生きたことを誇れる人生でありたい。
私はそういう人生に挑戦する生き抜く


KMC結党の理念は、50人以上にしない。小規模・精鋭集団で大企業並みの利益を生み出す会社
【格言】 会社を始めるなら景気がどん底の時に始めるべし。
どん底から下はない。そこからは這い上がり、上昇気流をつかむ大きなチャンスがある。
1990年バブル崩壊後のインクス設立、KMCはリーマンショック後2010年設立
【信念】 人生100年、死ぬまで勉強、挑戦
秋田県人の粘り・辛抱強さ、新しいもの好きに誇りを保ち、負けず嫌いの性格を保ちながら
我慢強く、粘り強く、世のため、人のため、社員のため、尊敬を忘れず、製造業の発展に挑戦し続けたい
決して、人を裏切ることない人生を全うしたい
追記:家内は何にも言わずにまたついてきてくれた。ありがたい、一生かけて恩を返したい。
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