番外編(その2) USでの武者修行3年、そして三井金属退職
- mnakata85
- 9月23日
- 読了時間: 12分
1.3D設計の夜明け:クライスラーが突然3D図の提出を要求
1980年台後半、Japan As No.1がUSに吹き荒れ、Ford、GM、ChryslerのBIG3も日本車に負けじと必死だった。Chryslerはフランスからペッツ副社長を招聘し、大きな設計室ではドラフターからCATIA(フランスダッソー社製)への変更がドラスティックに実施された。
後に試作部門ではSLA、今の3Dプリンターが導入され、開発スピードUPを図るアジャイル開発を推進した。そして購買が突然、3Dデータ承認図の提出をサプライヤーとの取引条件に変更してきた。世界の自動車メーカで初めてのことだった。
デトロイトオフィスには、日本の開発センターと同じホストコンピュータとCATIAをIBMから導入していたが、L/Oは3Dでも2D図面主体の開発体制だった。3Dデータ活用も試作で試みてはいたが、あくまでも2D図面が主体の自動車業界であり、3D図の対応にはデータ作成技術も乏しく、早急な対応が必要となった。
私は早速、市内のIBM/CATIA研修センターに入学し、突貫授業でモデリングライセンスを取得した。隣で一緒に学んだのがクライスラーのドラフターマン。彼もライセンスを取らないと仕事にありつけないので必死だ。
ドラフターマンはUAW(自動車労働組合)、クライスラーは単に3Dドラフターマンを採用、週給をアップする条件。当時、日本の3次元化といえばいかに社内3D教育するかに重点が置かれていたため当然差がつく。
当時、USでそのライセンス取得者が7000人といわれ、ボーイング等の採用条件となっていた。ライセンスを取得した日本人で初だっただろう。“あなたもこれでボーイングでも働けるよ”と言われた。クライスラーの広大な設計室にドラフターから3D-CAD/CATIAが次々と導入され、あっという間に3D車体設計がスタートした。

この変革のドラスティックな変革スピードは日本の経営者には難しいのではないか。なぜならUSの経営者は首をかけて発案・実行する文化だからだ。今のDXが欧米に比べ遅いのはこのあたりにも要因がある。
次の課題が3Dデータをいかに日本に送信するかだ。日本では設計室にMCを導入し、図面レスで試作品を高速でつくるシステムを構築していた。デトロイトと日本の設計を直結したら世界最速の開発が可能となる。生の3Dデータを衛星通信を使って日本へ送ることをUS-IBM に協力を求めた。16時間の時差を有効活用し、夜にデータを送信し、寝ている間に日本が開発を進める“24時間開発体制”を敷いて、1Weekで試作完成させることに成功した。
あなたたちは何をしているのか、寝ているのかとChryslerのエンジニア:Mr.Mone氏から心配された。
モネ氏とはその後、自宅に訪問して狩り談議や公私にわたり友人として大変お世話になった。
2.クライスラードアロック(DOOR LATCH)国際入札:3社から1社の残るための最終試練
今回のオファーは公正を期すUSらしく、世界11社のDOOR LATCHメーカにクライスラーから仕様書が配布され、国際競争となった。最大のライバルはカナダのマグナ社とイギリスのロックウェルあたりとみられた。
当時、高級車向けのドア開閉音(POP音)は日本の三井金属が一番と評価をもらっていたが、クライスラー仕様を満足するかは未知数だ。搭載予定機種もあり開発スピードと耐寒性、強度などUS性能が求められた。
CATIAの3D承認図と共に、次に着手したのがスピード試作である。一番時間のかかる樹脂Body部品を3Dデータから図面レスで直接NCデータを作成し、MCで切削する工程の確立を目指した。
日本の設計者にNCデータ作成とMC操作を学んでもらい日米3D設計を直結させる試みだ。それをサポートしてくれたのが実習時代にお世話になった石井さんというベテラン職人だ。(後にインクスの金型も指導いただく貴重な恩師)
日本に夜データを送信、寝ている間に日本でさらに設計を行い逆送信、まさに“24時間開発”を地でいった。設計部門だけで完結する3D・図面レス試作は、突拍子もない逆境から編み出したプロセスだ。他のプレス部品やばねなどの試作、組み立てと合計4日間でドアロック試作を完成させた。翌週にはデトロイト着となる。
日本とUSの3Dデータ交換は同じ日本人会のUSトヨタやHONDA、日産なども見学に来た。

そしてついに一回目の試作品が納品された。強度テストや耐久試験が進み、最大の難関である-40℃の耐寒テストを迎えた。バナナが凍る-40℃の冷凍実験室で車上からDOORに水をかけられ、ロック装置にもジャバジャバ水がかかる過酷なテストだ。当然凍結する。
それでもアクチュエータが動作しLOCK、UNLOCKしないと合格しない。そもそも―40℃では車のバッテリ電流が下がるのでモータトルクも下がり、試験は不合格になった。一瞬にして購買情報から三井金属のドアロックがメーカレイアウト候補から消された。
急ぎ対策のため日本に帰国し、部長に相談し、若手設計者を一人付けてもらった。作戦は水の迂回路をロック内に設け、レバー、アクチュエータ動作を守ることにした。改良設計と試作・凍結テストを昼夜慣行で行った。
試作業者、そして社内の試作部門、品証テスト部門等あらゆる社内リソースを一人で頼み込んで集中した。みな実習時代の飲み仲間であり、プレス等外注業者の社長が助けてくれた。工場泊まり込みで3交代の人と同じ風呂に入り、やっと凍結テストをクリアするところまでこぎつけた。と思ったらサポートの若手設計者に突然連絡がつかなくなり社内を探しまくったら、保健室で寝ていた。びっくりした、万一のことがあったらすべて私の責任だ。
それでも上司や管理職は大丈夫か?と声をかけるだけで直接手は出さない。信頼できるのは実習時代からの現場の仲間達だった。USへ対策品を手持ちしたとき、デトロイトメトロポリタン空港で山田一家、佐藤家のみんなが待ち受けてくれた。本当にうれしかった。
そして運命の冷凍室での最終実験。評価中、冷凍室のドアが閉められ、水かけが始まり、いざ動作実験だ。心から祈った。そして無事合格のサイン。冷凍室を出ようとしたら、今度はドアが開かず、閉じ込められたと知り、必死で窓をたたいたが、誰も気が付いてくれない。
一時は死ぬかと思ったが、車搬入のシャッターが簡単に開くことを後で知った。今では笑い話だ。
そして全ての性能をクリアしたのは三井だけ。これで受注が決まり、インディアナ州グリーンズバーグにGECOMを設立し、ドアロックの生産工場を建設することになった。足掛け3年、米人の日本での研修もあり一大事業が始まった。
ひと段落したところで、Mr.Maruyamaは山田家と佐藤家のお祝いをしてくれた。すじこを、お!ジャパニーズキャビアと話が弾んだ。渡米やいろいろなUSでの体験、米軍への入隊と戦争体験、父親のようでしばらく交友もあった。会話は全て英語だ、それが米人としての誇りだと感じる。

ビジネスを勝ち取るには、英語力でなく、モノ・現物が勝負だ。そして達成に向けた執着・反骨心、発想力が求められる。勿論、誰にも負けない開発SPEEDと支える仲間こそ力だという事を思い知らされたプロジェクトであった。やればできる。
それにしても実習の時からの現場の仲間は裏切らない。DXは仲間作りからスタートか。
3.SLA(Stereo lithography Apparatus)、光造形装置、現在の3Dプリンターの出会いと三井退職
Dプロジェクトも3年で受注成功し、ひと段落した。せっかく時間もできたのでゴルフを始めた。運よく、日本が寝ている昼間からゴルフ三昧。デトロイト近郊は実にゴルフ場が多く、30ドル以下で楽しめた。昼だと子供や家族が多くプレーしている。私の家から3分のところにある打ちっぱなし練習場より安い。家内も運転免許をとり子供も学校や近所の友達ができ、やっとUS生活に慣れてきた。それにしても子供の会話は聞き取れない。
運命は突然やってくる。
1989年デトロイトのオートファクトショーで初めてその未知の試作マシンSLAに出会った。山田さんが“佐藤、見こいCATIA-SOLIDデータからNCレスでドアロックが1日試作できるぞ、それも寝ている間に自動でだ”すぐに会社に5000万円ほどの稟議申請をしたが、当然誰も知らないSLA・RAPID-PROT手法だ。当然却下された。
山田・佐藤はまた、余計なことをするとお叱りを受ける始末。そういえば、日本で設計室に試作用MCを導入するときも、審査生技役員から佐藤君、君、2カ1/2軸を知ってるのかね、と馬鹿にされた記憶がよみがえった。それにSOLIDデータとかSTLフォーマットとかなんぞや。また今度はデータの種類やSOLID化の勉強開始することになった。
なんでも肥したインクス時代。光造形産業協会の理事や素形材センターの理事、郵政事業のフェロー等、その時の経験は大いに役に立った。そして50の手習いで、母校芝浦工大で博士論文に挑戦。人生100年、止まったら終わりだ。
同時に今度は、信頼を得たクライスラーから、次の大きな仕事:ドアモジュール(ドア一体納入)を三井金属でできないかとBIGオファーが来た。
車をユニット化し、組み立てを簡素化する大きな企てだ。そこで主要サプライヤー選定、ドアAssyの中でドアロックが重要保安部品、責任が取れるのは三井だけだといわれた。
それも残念ながら上層部で却下。またしてもエンジニアの夢が絶たれた。そしてデトロイトオフィスからインディアナのGECOMへの転勤命令が下る。
その時、山田さんが金色ビルのオフィスで窓を見ながら“佐藤君、会社始めようか”と切り出された。ためらいもなく即座に「ハイ」と答えた。何をやるかは問題ではなかった。
すぐに、山田さんと共に辞令発行の日にGECOMへ出向き、辞令の前に現地社長に辞表を提出した。今度はこちらから辞令を却下。すぐに専務が飛んできて、なんで辞めるんだと説得に合い、新規開発したいなら7000万までなら出してもよいと言われた。当然その場で断った。
もう後には戻れない。そして日本に帰国命令、デトロイトに家族を残し、ひそかに会社設立準備を本格化させた。家族を養い、生きていける自信はあったし、日本、米国で自分の力量は十分に分かっていた。
山梨の韮崎工場で山田さんと佐藤のための商品開発室が新設され3か月が過ぎた。私の家族は九州熊本の家内の実家に帰国させ、山田さん家族はUS、各々別居生活がスタートした。
【余談1】
山田さんは、三井金属の中で“ラストエンペラー”と呼ばれていた。とにかく、新しいものに挑戦し、説得してしまう力があった。私が月240時間の残業を繰り返していた時、組合の委員長が宇都宮オフィスに視察に来て、責任者の山田さんに詰め寄ったが、意にも介さずそれなら“人をください“を切り返して、ついに新入社員を勝ち取った。私は、せめて月1日の休みが欲しいと委員長に懇願した(本心ではないが)。山田さんと私の合言葉は”正義は勝つ“当時、接待漬けの部長や逃げ回る上司に立ち向かって行ったのが懐かしい。
【余談2】ミュージックチェア、井の中の蛙
帰国直前、ある時フォードの廊下でクライスラーのエンジニアとばったり会った。どうしたのと聞くと転職したよとあっさり。昨日打ち合わせしていたのに。佐藤さんは転職しないの?と聞かれた。今なら、フォードの部長の椅子かカナダ自動車部品メーカ・マグナの設計部長の椅子が空いているよ。と教えられた。佐藤さんなら採用されるはずだ。
どうも世界の11社の設計部長の椅子、自動車メーカの椅子があり、みな転職でよい条件なら渡り歩くようだ。横軸の連絡網もあるみたい。チャンチャラチャンと音楽が鳴り、椅子の周り回る、音楽が終わった一斉に椅子取りするミュージックチェア。世の中を知らぬは私だけで井の中の蛙だった。そういえば、三井を退職し、インクスを設立した時、イギリスのロックウェルインターナショナルとカナダのマグナ社からオファーがあるとヘッドハンティング会社から誘いがあった。
勿論、即、断った。初志貫徹。次の新しい仕事で世界TOPになればよいだけ
【余談3】インクス設立準備、同棲生活スタート
実は帰国前から会社設立の準備が始まっていた。インクス社員番号1,2の社員の説得と準備。ちなみに社員番号2は現KMCの高瀬さん。二人とも、私と同じ考えで疑問なく即座にインクスへの参画を承諾してくれた。そして我々より先に退職し、会社登記と役所や事業化の準備を開始。遅れて社員番号3の山田さん、4が佐藤だ。遅れた理由はアパートを借りる必要があり、私が三井在籍中でないと賃貸契約ができなかったからだ。そして、流山市(千葉県)の3DKに山田さんと佐藤の“同棲生活”がスタートした。2人一緒に出ると怪しまれるので、どちらか先に出て、時間差で駅まで行くことにした。労働基準所には社員4人、全員管理職と届け出た。なぜなら社員には当然残業代を支払う必要があるが、管理職なら不要だ。そんな会社ないよと言われたが、法律に違反はしていますか、と尋ねたら黙って許可された。
インクスは印紙代を除き、全て手作りの会社である。会社も作れるのが初めて実感した
【余談4】インクスを買いに来た中国ホンファイ郭社長
世の中の製品がラジカセや携帯など丸みを帯びたデザインが主流になってきた。3次元データを駆使し、ジェットエンジンのタービンブレードのロストワックス型やエンペラーや水中翼船のスクリュー、ポンプの羽根、ターボエンジンの部品など曲面を持った製品は実に多い。CATIAは局面に強く、扱える人が国内に少なく、NCデータまで作れたので、仕事は山ほどあった。勿論金型も同じだ。そんな噂を聞きつけた郭社長と東大の生産技術研究所の所長中川先生紹介で面談することになった。場所は、帝国ホテルのロビー。面談したのは山田社長。5億円で会社を買いたいとの申し入れだった。さすがに先を読む力はすごい。携帯電話製造TOPを目指し、曲面化し、製造SPEEDが求められることを予測し、インクスのCAD・CAM・高速切削・加工機と欲しい技術だったようだ。山田さんからどうする?と聞かれ、勿論、断ったらと返した。
初めての退職、会社設立、激動の1990年。しばらく秋田の実家には三井退職やUSから戻ったことも父が心臓を患っていたこともあり、しばらく内緒にしていた。そして父が倒れた時、実家に帰郷し家族に白状した。
三井金属には本当に心から感謝している。色んな事があったにせよそれが会社、充実した現場実習、新規商品の開発、国内外の経験、仲間、私を育ててくれたのは紛れもなく三井である。
インクス1990年7月設立:INCSとはUSの碁盤の目のハイウェイになぞらえ、Inter Computer System。ネットワークのことだ。さすが山田さん
資本金2000万円、4人と支援者の長見社長、八尾社長が発起人。今日のハンコ実にノリがいいね。その一言で成功した気になった。さすが経営者。

インクス時代、新入社員への挨拶で使用した“伝承格言”

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