第1回 伝承から電承へ
- OMI .LLC

- 8月6日
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更新日:9月16日
1.生い立ち、左官屋の職人DNA
秋声(佐藤声喜)は、秋田県能代市出身、父親は文学好きで働かない左官屋の棟梁。家には住み込み修行のお弟子さんが数人いて、小学生の私にタバコやお酒、週刊誌を無償供与で大人の社会を丁寧に教えてくれた。その甲斐もあって中学卒業までにはおおよその社会修行は卒業できた。
親父は、働かないくせにやたら道具にはこだわり、わざわざ東京に左官道具を仕入れに行っては高価で珍しいコテやら左官道具を買いつけに行っていた。店(作業場のことをいう)の両脇の壁一面にはずらり売れるほど陳列され、よく仕事仲間に無償であげていた。勿論、働かない親父と母は毎日大ゲンカであったが、大きな仕事の時は兄も母も時には私も家族総出で現場にいって手伝った。
世の常で、一番苦労していたのは母で、朝早くから畑仕事や田んぼ、そして日中は親父の仕事お手伝い、食事の賄いと獅子奮迅の働きで家計を支えた。ちなみに親父は全く酒が飲めないが、母は夕食にビールにお砂糖をいれてうまそうに飲んでいてバランスはとれていた。
また親父はなぜか田舎者のくせに、字も文章もそれなりに上手で、よく人から頼まれて恋文の代筆や、手紙、書きものを無償で請け負って感謝されていた。また、絵心もあり、趣味で書いた掛け軸が売れ、村祭りには灯篭や大きなねぶたの絵書きに私を伴って小学校の体育館で夜遅くまで書いていた。おかげで、姉、兄、そして私と同じ美術の先生について学んだ。
兄は東京に出てから個展をひらくまで上達して、姉も嫁いだ今もスケッチブックを片手に趣味の絵を楽しんでいる。私は、才のないことを早々と中学でさとり、美術部の副部長として女子部員集めや部の運営に一役買って楽しんだ。
ついこの間まで中学の玄関口にみんなで書いた大きなマンモスの絵が飾ってあったようだ。小学生では生徒会長とどうも私はそちらの道があっているのかもしれない。
ちなみに前職のインクスでは常務取締役COO、今はKMCの社長。
左官屋の親父のこだわり血統を引き継いだ私は、趣味は古いカンナ集めや米国時代の教会のバザーで見つけた古いランプ集め、そして趣味のスコッチや洋酒の小瓶集めにいそしんでいる。カンナは骨董市で古いカンナを安く買いたたき、専門の職人に研磨・磨きをお願いしてリニューアルした。

洋酒の小瓶(サービスボトル)を収集している。飾り棚を占有しても足りずいろんなところに分散保管しているがさすがに家内からヒンシュク。自慢はjohn beg 銀座のバーに通ってた時代、仙台のオーナーに頼み込んでもらい「親・子」を20万円で買い取った。Black&Whiteのよい。

高校時代は、親父と同じ道は歩みたくないとバスケットで有名な能代工業の機械科に入り、旋盤や鋳造などの実習もやったが、どうも性に合わず、唯一設計や材料力学などの授業だけは熱心に取り組んだ。また、血筋もあり、剣道部に入部して休みなし、先輩や鬼の社会人顧問からのきつい練習、田舎剣道に耐え抜き2段まで取得することができた。玉竜旗での5人抜きは本当に楽しかった。
剣道は、「無の境地」や「人間形成の道、礼節、信義」「社会や人類の繁栄に貢献」などを理念としており、柔道や、空手なども同じような理念を掲げているのではないでしょうか。

余談だが、秋田の雪国生まれなので、子供のころから高校、大学時代とスキーでよく遊んだものだ。大学時代は、池袋からのスキーバスツアーの添乗員のバイト。食事・宿泊・リフト代は勿論タダ。おまけにインストラクターを兼ねた女子学生グループとの交流会は楽しめた。

これが私の生い立ちであり、ある意味典型的な日本人の生い立ちと言えなくもない。60歳代以上の諸氏には賛同いただけると思う。
今の若手、中堅はパソコンやスマホ文化、SNS・ネットワークの世界で育っており、卒論はPCがないと書けないし、AIを活用して論文も作成する。私含めた古い世代では本当のところ、その思考や行動は理解しがたいところだろう。大学時代、実験用コンピュータは紙テープパンチャー、実験用センサは熱電対、ひずみゲージ、計算は計算尺、電卓、私の卒業設計は30トンの高速クランププレスだがドラフターで手書きの設計図で仕上げた。CADなど知らない世代だ。
ところが今ではAIやDXといったデジタル社会に向けたセンサ・センシング開発やIoT・M2Mソフトを開発し技術コンサルティングを生業としている。時代に追いつき、先を見据えて投資判断を行うのは大変だ。
第1回 伝承から電承へ(その2) へ続く
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